横須賀城跡
更新日:2009年2月6日
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| かつては高天神城攻略の起点として築城され、その後280余年に渡り横須賀藩の中心であった横須賀城は、明治維新とともに廃城となり、残された城跡は現在国の指定文化財として整備が進められています。 | |  |
沿革
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戦国時代末期、この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続きました。 天正6年(1578)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせました。天正9年(1581)高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数えます。 明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は明治維新の動乱のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩は静岡藩に含まれることとなりました。横須賀城は明治2年8月に廃城。さらに明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられましたが、城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国の史跡に指定されました。 |
横須賀城の特徴
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横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭の二つを併せ持っています。 また、普通1つしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられます。 |
地理的景観
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初期段階の横須賀城の主郭部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として築かれ、近世中期までに二の丸等の平城部分が拡張付加されて、現在の横須賀城が完成したと考えられています。近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害の地でした。また、この入り江には横須賀湊(みなと)があり、物流の拠点にもなっていました。 築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられています。掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押えであると同時に海上交通の押えであったと考えられます。 | |  |
| ▲横須賀城跡航空写真 |
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▲横須賀城平面図
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歴代城主
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| 大須賀氏2代の後、豊臣系の大名渡瀬氏、有馬氏が2代入り、その後、2万5千石から5万5千石の譜代大名(松平(大須賀)氏、松平(能見)氏、井上氏、本多氏、西尾氏)の居城となりました。中には江戸幕府の老中を勤めた城主もいました。 |
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