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現在位置:静岡県掛川市の中の観光・ロケ支援の中の南部エリアから高天神城址・高天神をめぐる戦い

高天神をめぐる戦い

更新日: 2009年1月27日
掛川市役所 商業労政観光課電話: 0537-21-1149E-mail: syoko@city.kakegawa.shizuoka.jp
 

《今川氏滅びる》

 
 駿河と遠江二ヶ国の守護、今川氏真(うじざね)が、駿府今川館を、武田信玄によって逐われたのは永禄11年(1568)12月13日、信玄と家康が相談し今川領に同時進攻をはかった。
 氏真は掛川城に逃げこんだが家康に包囲されてしまった。永禄12年(1569)1月12日から5月17日まで、はげしい攻防戦がくりひろげられた。
 その攻める徳川軍の中に、寝返った(今川から徳川へ)ばかりの高天神城主の小笠原氏興・長忠の父子がいた。
 そして5月17日、氏真が降服し今川氏は滅び、家康はほぼ遠江を平定した。
 

《第一次・元亀2年の戦い》

 
 信玄は永禄12年(1569)10月、家康が越後の上杉謙信と盟約を結んだことを知り、これに刺激されて翌年の元亀元年(1570)、いよいよ本格的に遠江への侵攻を開始することとなった。
 元亀2年(1571)2月、信玄自ら2万の大軍を率いて甲斐を出発し、3月に高天神城の南東にあたる塩買坂(現在の菊川市川上)に陣を張り高天神城の攻めにとり組んだ。
 しかし信玄は、「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい。」とばかり獅子ヶ鼻(現在の菊川市大石)と国安川のニケ所で小競りあいを行なっただけで、三河に進み、伊那を通って甲斐にもどった。
 真相は、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめたようだ。
 こうして第一次高天神城の戦いは終った。
 このとき城に籠った兵は、城主小笠原長忠以下2,000名といわれる。
 

《第二次・天正2年の戦い》

 
 元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。(三方ヶ原の戦いの項を参照)
 元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ケ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。
 城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。
 
写真 浜松城
家康が遠州攻略の拠点とした浜松城
 
 勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の援軍を要請した。
 なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日には本曲輪(本丸)二の曲輪(二の丸)しか残っていなかった。
 城主長忠は、家康からの後詰めなく生き残る道を模索しはじめ、勝頼に対して、いろいろな願いごとがなされた。
 勝頼は、何としてでも高天神城を手に入れたい一心から、この小笠原長忠に好条件を提示して味方に誘った。このときの開城の条件として、勝頼は城兵の命を保障したばかりでなく、城主長忠と共に武田方につくのもよし、そのまま家康方に残るもよし、とその後の進路は各人の判断にまかせた。
 長忠は駿河国富土郡の一部を与えられ、渡辺金太夫たちは武田方へ、渥美源五郎らは徳川方へ残り、6月17日に開城した。
 
図 高天神城想像図
▲戦国時代の高天神城の想像図
 

《第三次・高天神城の戦い ~ 落城 ~》

 
 高天神城が武田方のものになったため、家康は高天神域に対する押さえの城を築く必要にせまられ横須賀城のほかに、小笠山砦、三井山砦など計6つの砦を築いた。
 高天神城には小笠原氏に代って横田甚五郎尹松が城番(城代)として入ったが、天正7年(1579)には岡部丹波守真幸と交代し、横田は軍監となった。
 第二次高天神城の戦いの翌年には長篠の戦いがあり、勝頼は大敗、武田勢は守勢に転ずることとなった。
 家康は北遠地方の城を次々と勝ちに乗じてとり返し、遠江における武田の城は、高天神城と小山城しかなかった。
 高天神城に籠城する武田軍と、攻める徳川軍との間で、はじめて大がかりな武力衝突があったのは天正6年(1578)、国安の菊川の川辺であった。
 城外でたびたび小競りあいがあった中で、家康は着々と高天神城包囲の態勢を整えた。要するに兵糧攻め。勝頼が運び込む兵糧、弾薬をストップさせれば、城は自然に落ちると考え、高天神城に入れない監視所が必要となった。これが砦であった。(天正7~8年をピークに築かれた。)
 高天神城の岡部長教(岡部丹波守妻幸と同じらしい)ら籠城衆は、何度勝頼に応援を依頼しても音沙汰がないため、とうとう独自の動きをとった。
 「降服したい」と家康に申し出が矢文を使ってなされたが、家康はその申し出を許可しなかった。
高天神城ではいよいよ兵糧がつきてきた。勝頼の後詰の動きはない。
城主岡部長教は天正9年(1581)3月22日、血路を開くため、ついに城内から全員が討って出、玉砕した。
 実に壮絶な戦いだった。死者730余名が堀に埋まったという。家康は戦い終って城内を検視し、城郭を焼き払って浜松城へ帰った。
 「高天神城落城」第一次の戦より約10年の長い武田、徳川の攻防であった。
 翌年、武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡した。
 


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