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現在位置:静岡県掛川市の中の生涯学習・文化の中の文化・歴史から吉岡彌生

吉岡彌生 (よしおか やよい)


更新日:2008年7月25日

吉岡彌生記念館電話: 0537-74-5566E-mail: yayoi@city.kakegawa.shizuoka.jp
 
写真 吉岡 彌生  
  よしおか    やよい
吉岡 彌生
    (1871~1959)
  
  
 
○医者の家に生まれる
 明治の時代、当時としては稀な女性医師として身を立て、東京女子医大の前身である東京女医学校を創設した吉岡彌生は、明治4年(1871)遠江国城東郡嶺村(現・掛川市土方)で医家鷲山養斎の次女として生まれた。
 高天神城跡をすぐ西にする生家鷲山家は、かつて醤油造りをしていたが、彌生の父である医師の養斎が磐田郡鎌田(現・磐田市)より養子として迎えられて以来、医院を開業していた。
 養斎は当初漢方医であったが、鷲山家へ養子として入ってから上京し、オランダ語で医学を学んだ新しい医院で勉強し、土方村へ帰って開業した。
 江戸から戻ってきたときゴムの聴診器を持ち帰り、これで診断を下していたから、この話が隣村にも伝わり、鷲山先生はモダンな医者として有名になった。
 その頃の薬は、今でいう漢方薬だから、ほとんど煎じ薬。彌生も小さい時から父のそばで薬を包む仕事を手伝い、見よう見まねで、少しずつ医学に心を傾けるようになった。
 養斎は、金持ちでも貧乏人でも分けへだてなく診療し、「あの患者には薬より食べ物だよ。」と弟子に食料を運ばせたという。
 
○卒業後は和裁の稽古
 彌生が嶺小学校(現・土方小学校)に入学したのは明治9年(1876)5歳の時で、長寿庵の本堂を供用しての学校であった。
 当時は子供を小学校に通わせる余裕のある家は少なかったので、生徒は一学年十数人だった。女子は二人。おそらく土方村で初めて小学校に通った女子だと思われる。
 彌生が小学校を卒業したのは、明治17年(1884)13歳。8年間小学校に通ったが、国語・漢文の実力は今の高校生以上、数学、地理、歴史は中学程度、理科はやや遅れていた。
 その頃は小学校以上の学校へ上がる女子はほとんどいなかったから、彌生が卒業と同時によい嫁さんになるために和裁を習いに行ったのは、ごく自然なことであり、約2年間修業に励んだ。
 お針(裁縫)は根気のいる仕事と共に、技術的な手法がある。彌生は、いつも算術や漢文を学んだときのように頭で理解しようとして失敗した。体でわからなくてはという教訓が、医者になった時大いに生かされた。
 明治時代には、どこの家でも母親が機織りをして、夫や子供の着物をこしらえていた。毎日、黙々として働いている母親の背を眺めて感謝すると同時に、女の一生はこれでいいのだろうかと弥生は考えた。
 この頃、二人の兄は東京の医学校に通っており、授業生をしていた松本亀次郎は静岡の師範学校で勉強をつづけていた。弥生は自分も東京へ出てみたいと思ったが、まだ自分のやりたいことがつかめず、歯がゆい思いをする毎日であった。
 
○女医への夢
 明治18年頃は政治に国民の関心が傾いた自由民権運動の後半期にあたっていた。情熱の詩人北村透谷や、俳人、子規まで自由民権運動に身を投じようとしていたほどであった。東京から送られてくる新聞や雑誌にふれるたび、彌生が政治の動きに深い関心を持つようになっても不思議ではなかった。近くで行なわれる立会演説会にも出かけたりして、次第に土方村の外の世界へと眼を向けるようになった。
 東京や大阪では自分よリ5つか6つ年上の女性たちが自由民権運動に身を投じている。彌生は新聞記事を読みながら、早く自分も学問を身につけなければと焦った。
 思い悩んでいた時「女学雑誌」という本から医学に進む引き金となる記事を見つけた。そして女性の経済的独立を唱える意見も、その雑誌から知った。
 彌生は自分で働いてお金を得ないと、女が独立できないことに気付いた。看病・看護とを結びあわせて考えているうちに、ふと女医になりたい夢をふくらませた。
 まだ近くの町でも女性の医者はいないが、兄の通っている東京の医学校には女子学生がいるという。
 明治21年(1888)の新聞に二人の女性が医術開業試験に合格した記事を発見し、彌生は女医志望の気持を固めた。
 彌生は思い切って父に医者になりたいと申し出たが、頭から問題にされなかった。家計のことも理由であったが、医学の道は男にとっても大変であるのに、いくら村の秀才であっても彌生には女医は無理と父は考えているようだった。
 彌生は事情がわかってきたので長期戦に備えることとし、まず自分の実力を付けようと決意した。
 漢学の個人指導、化学の独学など必死になって勉強を続けた彌生は、ついに兄の助言や本家の人たちの意見で、反対を唱える父養斎と2年限りという約束を交わし、兄の学んでいる済生学舎という医学専門学校への進学を許してもらった。
 
○日本で27番目の女医に
 明治22年(1889)4月19歳の春、彌生は東京では唯一の男女共学の医学校、済生学舎に入学した。この頃の学校は入るのが易しく出るのが難しいのが常識であった。例えば化学の例を取ると、原子記号や化学方程式の解法の基礎を身につけずに入学すると、化学の講義はちんぷんかんぷん。独学で基礎を固めておかなくてはならなかった。
写真 前期試験合格記念 吉岡 彌生  済生学舎は最短終了期間は3年であった。小学校卒業だけであとは独学という彌生にとって講義についていくことは大変な努力を必要とした。また、社会的な男尊女卑の風潮を反映してか女子学生には厳しい学習環境であり、医者になるためには、当時、前期と後期に分かれていた試験に合格しなければならなかった。彌生が受験する頃は合格率が前期30%、後期20%くらいであった。
 彌生は女医を目指す一年からすべてに耐え、入学してから1年目の春、前期試験に済生学舎からの女子学生16人と一緒に受験し合格した。
 医術開業書式験の後期は、臨床試験もあるので難関であった。彌生の明治25年(1892)の春の試験は不合格であったが、秋の試験にはみごと合格した。日本で27人目の女医の誕生。彌生21才であった。
 
○東京で医院開業
 彌生は済生学舎を卒業後、東京に残り順天堂医院へ実地見学に通っていたが、父養斎の度重なる催促によって故郷へ帰る。しばらく、養斎の鷲山医院分院を手伝うが、医学の本場ドイツヘの留学を夢見て再び上京した。
 深い教養を身につける必要性を感じた彌生は、選修学舎で国文学を習うとともに、ドイツ語を私塾、東京至誠学院で学んでいた。やがて夜間のみ診察を行う鷺山医院の看板を掲げ、後に至誠学院院長の吉岡荒太と結婚することになる。
明治28年(1895)、ドイツ語の師であり、学問以外にはすこぶる無頓着な荒太の人となりに好感を抱いていた彌生は、結婚を現実に考えるようになる。養斎は愛娘の結婚をしぶしぶ許諾。結婚式は、彌生と荒太そして吉岡家の兄弟だけで挙げる質素な宴であったという。
 彌生より三つ年上の荒太は玄界灘に面する肥前国松滴郡高串村(現・佐賀県東松浦郡肥前町)の出身で、代々医業を受け縦ぐ旧家の長男であった。医師を志し19歳で上京、自ら学んでいたドイツ語を教えながら生計を立てていたが、自身の病気や荒太を頼って上京した二人の弟の世話のために医学への道を断念せざるを得なかった。無口で必要なこと以外はあまり口を開かない半面、妻の意志を尊重し干渉や束縛を一切しない荒太は彌生にとって最高の伴侶であった。後に彌生は、「私の結婚は決して間違ってはいなかったと信じている。」と書き残している。
 
○医学校創設の決意
 彌生は結婚後も、昼は学校へ、夜は診察を行う毎日が続いていた。ところが、翌年上京してきた父養斎が東京至誠学院の貧弱な設備を見て、もっと大きな学校にするよう荒太を鞭撻。これをきっかけに、ドイツ語のほかに英語や漢文などを教える高等予備校に事業を拡大。彌生もこれを手伝うことになり、二人は多忙を極めていった。
 そのような中、彌生の母校である済生学舎が男女共学による風紀の乱れを理由に、明治33年(1900)9月、女子学生の入学を拒否したのである。これを聞いた彌生は、済生学舎以外に女医の養成機関がないことから、また自分が学んでいた頃の苦しい体験を思い起こし、女医を目指す者の道を閉ざしてはならないと強い使命感を覚え、居ても立ってもいられなくなった。
 その頃の荒太は、長い間の無理がたたってか糖尿病を患い、東京至誠学院を閉鎖、静養して間もない頃でもあった。早速、彌生が相談すると、荒太も至誠学院を中学(旧学制)に、その上に医学校を創立したいと考えていたと、直ちに賛成を唱えた。やがて、二人は今日の東京女子医科大学の前身、東京女医学校を麹町区飯田町の至誠医院内の一室に創立する。明治33年(1900)12月5日、荒太32歳、彌生29歳の時であった。

 東京女医学校創立当初は、机と椅子を並べただけの六畳一間の教室に、学生はわずか4名だった。彌生も学校も貧しく、実験道具といえば顕微鏡と数本の試験管だけである。それでも夜になると夫妻のもとへ寄宿生が集まり、煎餅をほおばりながら身の上話や将来のことを語り合った。
 ある時、小さな木造の西洋館が売りに出されているのを見つける。散歩の度に、彌生は生徒達よりここへ移りたいと歎願される。1,200円で売りに出ている洋館は、元は陸軍獣医学校で、延六、七十坪の建物は学校らしい貰録を見せていた。
900円の抵当を引き継ぎ、残り300円をどうにか工面すると土地すべてを買い取り、明治36年(1903)、西洋館へと引っ越した。
 ここが、現在の東京女子医科大学の地、新宿区河田町であった。
 
○9年目でやっと医師誕生
 看板を掲げてから数年後、医術開業試験の大正3年(1914)の廃止が決定(実際は大正5年に廃止)、医師試験の受験資格は医学専門学校の卒業生にのみ与えられることになった。二人の前途に、専門学校への昇格という大きな試練が待ち受けていたのである。
 当時の私立学校に対する役所の態度は非常に冷淡で、申請書を提出しても回答はなかった。女医亡国論や職業婦人の排斥論も盛んな時代である。しかし、専門学校への昇格が認められなければ、東京女医学校は廃校に追い込まれてしまう。
彌生も生徒達も、全学をあげて設備の改善のために努力を重ねるのであった。
 この時も、荒太の支えなくしては乗り越えられなかったと彌生は回想している。喜ばしからぬ経過を報告しても「まあ、なんとかなるさ。」と、役所へも「まあ、行かないよりは行った方がよかろう。」と言う落ち着き払った夫の態度に励まされた。また、彌生自身も自分を頼って入学してきた生徒達一人ひとりを思い、石にかじりついてでも昇格させなければならないと肝に銘じていた。それは、東京女医学校を創立した時以上の使命感であった。
 やがて努力が実り、明治45年(1912)3月、本科四年制の在学生247名からなる東京女子医学専門学校に昇格した。彌生にとって、生涯最高の喜びといえるほどの感激の瞬間であった。

 この間には、最初の卒業生、竹内(旧姓:井出)茂代をはじめ、医術開業試験の合格者を世に送り出している。また、昇格にあたって施設の充実を図る必要から借金を重ね、増築の結果、校舎は廊下だらけで「牛込の廊下学校」と噂されるが、彌生と荒太の努力の結晶は生徒達にとって誇り以外の何物でもなかった。
 専門学校に昇格した喜びも束の間、文部省の指定校にならなければ、卒業後に無試験で開業することはできなかったことから、指定校になることを望む声が父兄や生徒達の聞から沸き上がった。彌生は、焦らず時を待つべしとしていたところだった。
 医専認可後、初めての卒業生46名が誕生したが、直ちに卒業免状は渡されず、学課すべての試験を行った。それは、専門学校の卒業生は新しい国家試験に合格しなければ医師免許を受けられなかったので、それに備えて学生に実力をつけさせようという吉岡校長の厳格な鍛練主義にもとづくものであった。卒業式は11月まで延びたが、大正6年(1917)2月に始まった専門学校卒業生のみを対象とする国家試験に、46名中27名が合格。当時の平均合格率22パーセントというなか、東京女子医学専門学校の真価を発揮するのであった。
 時代は女性の社会進出が目覚ましく、卒業生の実力も広く認められ、学校への志願者の数は増える一方となった。専門学校へ昇格した年に128名だった志願者も、この頃には二倍近い数になっていた。大正8年(1919)、文部省より指定校への申請をするよう呼び出される。翌年3月、医師法第1条によって、東京女子医学専門学校は長年の念願がかない、無試験検定の指定校となった。
 
○専門学校から大学へ
 大正9年(1920)秋頃より、多忙を極める日々の中で無理を重ねていた荒太の病状が悪化。彌生の手厚い看病もむなしく大正11年(1922)7月5日、彌生にとっては人生の同志にして最愛の夫、荒太は54歳で永眠した。「ぜひ大学に築き上げたい、大学になるまでは死にたくない…」と言った荒太の最後の言葉が、彌生の胸に切なく響いた。
 大正12年(1923)の関東大震災では、着ていた洋服と聴診器の入った鞄以外の一切を失う。しかし、灰塵の中からも彌生は陣頭指揮にあたり、瞬く間に復興に着手。その手腕には、誰もが目を見張るものがあった。
 さらに、日本女医会会長をはじめ愛国婦人会評議員を務めるなど社会に広く貞献する活躍に対し、大正13年(1924)には勲六等瑞宝章を授けられる。また昭和3年(1928)には、ハワイにおいて開催された第1回汎太平洋婦人会議に日本代表として出席。日本女医会を代表し、特に保健問題について講演を行った。
 還暦を迎えても手術を行わない日はなかった彌生だが、体力に限界を感じた昭和14年(1939)、48年にわたる医師生活に終止符を打つ。同時に、いよいよ全力をあげて、女医の養成と社会教育、婦人教育のために身を捧げる決意も新たにするのであった。
 しかし、東京女子医学専門学校長を務める彌生は、戦後の社会的混乱と学園民主化運動に巻き込まれる。昭和22年(1947)、教職追放によって附属病院長を、公職追放によって厚生省顧問その他一切の職務から締め出され、自身の学校や病院でさえも立ち入ることができなくなってしまう。
 それでも人事の往来、信書の往復は絶えず、書を書いたり短歌を詠むなど、多忙を極めた生涯の中では唯一、静かな落ち着いた暮らしでもあった。また、明治草創期の女性らしく、周囲の者には「詩を作るより田を作れ」と諭している。どんな状況にあっても悲哀に流されることなく着実に事を実行していくべきと、事業家肌の彌生であり続けるのであった。

 昭和22年(1947)~昭和26年(1951)の公職・教職追放の4年間は、彌生にとって大変に辛い時期であった。じっと引きこもっていることが苦手な彌生は、「格子なき牢獄」とその心境を表現している。
 昭和22年(1947)、新制大学への切り替えには、彌生に代わり教え子たちが奔走。4年後の昭和26年(1951)には、東京女子医科大学が学校法人として認可される。昭和26年(1951)8月に彌生の公職追放が解除され、次いで11月に教職追放が解かれた。翌年3月、彌生は東京女子医科大学の学頭に推薦され就任、東京女子医科大学学頭となった他、彌生は婦人厚生会会長、日本女子社会教育会最高顧問、婦人衛生会副会長、至誠会会長に就任した。
 社会情勢は変わり、年齢も80歳を越えたが、世にある限りは少しでも社会の役に立ちたいとの意欲はまったく損なわれなかった。
 彌生は民間福祉事業にも着手し、昭和26年(1951)に小さいながらも老人ホーム「憩いの家」を造った。また戦争遺家族や傷病軍人の援助や、結核患者の予防にも取り組んでいきたいと考えていた。

 昭和29年(1954)、彌生は千ケ滝山荘で突然倒れた。駆けつけた教え子たちの介抱で健康を回復したが、これが最後の大患の予告となった。翌年胆石症で入院し、一時は昏睡状態に陥るが奇跡的に持ち直し、以来自宅療養生活となる。
 昭和34年(1959)5月22日、教育界、婦人界にも偉大な功績を残した彌生は、88歳でその生涯を終えるのであった。
 葬儀の後、彌生の長男、吉岡博人は彌生に供えられた香典を、大学及び至誠会で役立ててほしいとして寄贈した。当時は、文部省などにおいて科学研究などを支援する制度はあったが、女性が受ける機会は少ないのが実情であった。
 昭和36年(1961)、若干の有志の資金を加えて吉岡彌生研究奨励金制度が成立した。
 
○看護学部・記念館の創設
 平成10年(1998)4月彌生の故郷の地、静岡県小笠郡大東町下土方地内(現・掛川市下土方)に、彼女の創設した東京女子医科大学の4年生の看護学部が開校、11月には、郷土偉人顕彰事業の一環として「
吉岡彌生記念館」が完成した。彌生の生涯を紹介するとともに、看護と介護の情報発信拠点として、県内外をはじめ全国の人々に活用されている。
 写真 吉岡彌生記念館
 
写真 吉岡彌生記念館  吉岡彌生先生について、また現代医学の変遷について興味を持たれた方、もっと詳しくお知りになりたい方は、吉岡彌生記念館を一度訪問してみてはいかがでしょうか。
(入場料大人200円、子供100円(特別展開催中は大人400円、子供200円))
 また、記念館では吉岡彌生記念館誌「愛」を販売しております。(一部500円)

 詳しくは
吉岡彌生記念館のページをご覧ください。
 


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