赤堀 四郎 (あかほり しろう)
更新日:2008年12月5日
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| | あかほり しろう 赤 堀 四 郎 (1900~1992) |
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○生い立ち 掛川市で生まれた文化勲章を受賞した化学者、教育者。昭和41年10月に名誉市民に推挙。 赤堀 四郎は、千浜村成行(現・掛川市千浜)で明治33年(1900年)、小学校教師、秀雄の8人の子供の中の四男として誕生した。 父親の秀雄は高潔な人格と学識で尊敬された教育者であった。静岡師範学校(現・静岡大学)を卒業し見付小学校(現・磐田市)に勤め、まもなく佐倉小学校(現・御前崎市)に転じ、四郎が誕生した翌年に千浜小学校長となった。 秀雄は栄転を固く断り大正6年(1917)に退職するまで、地元の小学校と青年の教育に生涯を捧げた人であった。 四郎に科学への関心を向けさせたのは、父親の秀雄だった。 例えば秀雄は、いかにも明治の校長らしい謹直で威厳のある教師であったが、その頃は珍しい自転車で通勤するとか、だれも食べない赤ナス(トマト)を栽培して人に勧めるなど、新しがりやで好奇心の旺盛な人物であった。 |
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○給仕係の苦学生 こうした環境の中で育った四郎は大正2年(1913)、千浜尋常小学校を卒業し、高等科1年を修了した翌年3月、叔父の勧めで東京に出た。 叔父は大蔵省専売局に勤務しており、その関係もあってか四郎は上京と同時に、大蔵省主税局関税課の給仕として勤めることとなった。四郎13才の春であり、早くも苦学の道に入って、筒袖に絣の着物に袴、烏打ち帽という給仕スタイルで通勤し、夜は近くの神田の錦城中学校の夜間部に通った。 この時代の教育制度は、おそろしく貧弱で差別的であった。貧乏な秀才は、授業料のいらない軍隊の学校か、師範学校へいく以外は苦学しかなかった。 当時の中学は、現代の中学と高校を合わせた制度で、小学校から進学して4〜5年で卒業する。その頃の中学校夜間部は、すべて私立であった。 古くから神田は苦学生の町で、名高い中学夜間部がいくつかある中で、錦城中学は名門であった。 今の定時制高校とは反対で、昼間の中学校が5年制なのに、夜学は、4年制で5年分の授業をこなす制度だから勉強は厳しい。 勤め先の関税課にいる同僚の給仕たちは、江戸っ子のちゃきちゃきばかり。なめらかで早口な東京弁が聞き取れず、初めは電話の取り次ぎも満足にできなかった。機転をきかして小利口に立ち回る才覚に乏しい四郎には辛い毎日であった。一年は辛抱したが我慢できず、叔父に頼んで職場を変えてもらった。 |
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○科学に接する 専売局は煙草、塩、樟脳の生産と販売を政府が独占する役所で、製品の品質管理のために科学分析室がある。四郎は、そこの給仕となった。雰囲気がよくて楽しく、農芸化学や薬学の学校出の役人たちがいろいろ教えてくれた。 四郎が科学に接した最初である。 しかし夜間部では、正規の中学校の学力を身につけるのは、実際に因難だった。見かねた叔父は2年生の暮れに「来春、昼間部4年を受験して合格すれば学費を出そう」と言ってくれた。 夜間部の2年生が3ケ月そこそこで3年の課程も独学し、4年の編入試験に合格するのは至難の技。必死の勉強が実って見事に合格し昼間の私立錦城中学校4年生になった。喜んだ叔父はさらに上級の専門学校の学費も約束してくれた。 四郎が神田で苦学していたころすぐ近くで、松本亀次郎が独学で東亜高等予備校を開いていた。また吉岡弥生の病院と女子医学校があった。二人とも40歳台で、まだ芽の出ない苦闘の時代であった。 |
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○科学者への道 錦城中学を卒業した四郎は、大正7年(1918)に、千葉医学専門学校の薬学科(現・千葉大学)に進学した。 次兄にならって医師になりたいとも思ったが、叔父の勧めで学資も安く、年限も短い薬学の専門学校を出て薬剤師になろうと考えた。 大正10年(1921)に千葉医専を卒業し、製薬会社の桃谷順天館の研究助手になった。四郎の仕事は、東京帝大理学部化学科の講師で、会社の嘱託をしていた西沢先生の助手で、研究室は東京帝大化学科の地下室だった。 そこで四郎は、せっかく東京帝大の地下室にいるのだから、ぜひ講義を聞きたいと先生に相談すると、化学科の池田菊苗博士の化学通論の聴講を頼んでくれた。(池田博士は、味の素発明者) 会社の研究助手の仕事は難航し結局、有機化学を勉強し直そうということになり、先生と四郎は夏の2ヶ月を東北帝大理学部の化学教室に内地留学した。その頃は、東北帝大の真島利行博士の研究室が、日本の有機化学のメッカであった。 西沢先生と四郎は研究の糸口を求めて真島博士の門を叩いた。四郎はそこの雰囲気に魅了されて、化学をやるならここしかないと思った。 |
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○東北帝大に学ぶ 四郎の気持ちを察した西沢先生は、試験を受けて東北帝大への補欠入学を勧めてくれた。勇躍奮起、勉強に取りかかった四郎は、翌大正10年(1921)、みごとに東北帝大の理学部化学科に合格した。 大正14年(1925)卒業の年、四郎の学力を認めた味の素本舗は、大学院の学資援助を承知したので引続き真島研究室で研究することとなった。 この研究室で醤油の香気成分の発見をしたのをきっかけに、四郎はタンパク質、発酵、酵素という分野に目を開くようになった。 四郎は業績を真島博士に認められて、大学院生活5年を終った昭和5年(1930)に、東北帝大理学部化学科の講師に任命された。 翌年、理学博士の学位を授与されて、押しも押されもしない化学者になった。 |
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○タンパク質・酵素の研究 さらに昭和7年には、まもなく創立される予定の大阪帝国大学の教官に指名されて、3年間の海外留学を命ぜられた。 海外生活を終えて昭和10年(1935)大阪帝大理学部助教授に任命され有機化学講座を担当した。 まず取り上げたのは高峰譲吉博士のタカジアスターゼの成分の酵素タカアミラーゼの結晶化と、構造決定という大仕事だった。この研究はその後30年に及んだ博士の生涯の仕事になった。 昭和14年(1939)に39才で教授に昇任、昭和22年理学部長、24年に新制大学初の一般教養部長、28年には理学部長も兼任になった。 | |  | | 左図の銅像は千浜小学校・校庭に設置されている胸像。 平成3年3月19日に大東町(当時)が、生涯学習のまちづくりの一環で、郷土の偉人を後世に伝える事業として建てた。 |
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博士は行政官の才能も豊かで、50才ごろから次々と重職がまわってきたが、研究意欲は衰えなかった。 25年には日本化学会賞を「酵素及びアミノ酸の研究」で受賞した。 戦後、再開したタカアミラーゼの研究に関連し、タンパク質の構造を解明する「ヒドラジン分解法」を発見し、これは世界的な反響を呼び、タンパク質分解の標準の方法の一つとなった。 これによって昭和30年の日本学士院賞を受賞した研究が生まれた。 昭和22年理学部長になって以来、博士が手がけたのは、生物科学の総合化であり、新制大学発足と同時に生物学科が誕生した。 また昭和28年には、東大に創設された応用微生物研究所の酵素部門の教授を兼任し、徹生物の酵素による抗生物質の生産に貢献した。 |
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○「文化勲章」受賞へ そして昭和33年には大阪大学にタンパク質研究所(正式には蛋白質研究所)が発足して、赤堀博士が、理学部長兼任のまま、初代所長に就任した。 2年後の昭和35年(1960)、大阪大学学長に就任し、2期6年の任期満了で学長を退任すると同時に大学からも退官して名誉教授となった。 こうして長い年月の学術への功労によリ39年の日本学士院会員、40年の文化勲章、50年の勲一等端宝章と、いくつもの栄誉に輝いた。 |
図書名は、掛川市立図書館の貸し出し予約ページへリンクしています。 出典 『歴史と人情の街 だいとう小事典』『大東町名誉市民 赤堀 四郎先生伝』 |
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